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40歳定年その2

休会はしていたものの、年後半には復帰。

また戻ることができ、みんなが暖かく迎え入れてくれたことは、

ありがたかった。

2003年は、九州地区協議会に松田先輩が委員長として出向された。

運営幹事として、ご一緒させていただくことになった。

この年は、まぁ出向先で一番重要なのは、何をする委員会かが

重要なのではなく、誰が委員長なのかが重要であるということを

実感した一年であった。

いうまでもなく、松田先輩は普通ではない。

当人からすれば至って普通なのであろうが、

どう客観的に見ても、その活力は常軌を逸している。

能力の高さは言うまでもなく、あのバイタリティーはどこから生まれてくるのか。

そこについていく者の身にもなってほしいものだが、

得るものは十分すぎるものがあった。

このきらめく九州創造委員会の同窓会は今でも続いている。

その年の後半、来年度の組織が固まり始めるころ、

森山君からお会いしませんかという電話が入った。

すると、来年事務局長をするから、次長をお願いしたいという。

事務局畑で育ってきていた私にとって、

次長のポジションであれば、そこまで大変ではないという軽い判断があって、

安請け合いをしたのであったが、

ふたを開けてみれば、森山専務誕生であった。

自動的に、事務局長に昇格である。

事務局長を受けることになりましたと松田先輩に報告すると、

あなたは事務局長などせずに委員長をしなさいといわれた記憶がある。

確かに、事務局長などおもしろいポジションではない。

しかし、森山君が専務をするのであるから、

私が支えなくてはならない、そうしたいという思いが強かった。

幸いにも事務局次長を高田君が受けてくれた。

入会したときの約束を覚えてくれていて、

どちらかが初理事をするときは副委員長にお互いなろうと。

ありがたかった。

そして、こちらも運命的な出会いになった。

佐藤先輩との出会いだ。

小生意気な後輩たちにもかかわらず、

どこまでも、やさしく、暖かく、接してくれた。

だが、やさしさだけではなく、

信念は決して曲げない心の強さも、教えてくれた。

セクレタリーには、首藤君が決まっていた。

もう一人ほしいというと、

アカデミー委員会の柳田慎司君を推薦してくれた。

私が彼に電話を入れると、よくわからんけんど、やれるだけやってみますわ。

快く引き受けてくれた。

こちらにも、感謝だ。

そうやって、04のteam-tetsuji が生まれた。

当時、54名のスタートであった。

世界会議も福岡で開催される年で、予算を組むことが困難を極めた。

どうやったらこの予算を通せるか、

緻密な計算をしたのは当たり前で、

監事、副理事長を味方につけ、みんなの思考力が衰えてくるであろう時間帯に、

議案が回ってくるように次第を作り、臨んだものだ。

とにかくいろいろな体験、経験をさせていただいた。

抱腹絶倒の一年であった。

そんな固い結束のteam-tetsuji にも、終わりが近づいてきた。

05予定者の時期だ。

2005年の理事長予定者に松田先輩が選出された。

松田先輩から電話が入る。

会いたいのだが時間はあるか。

まちがいない、スタッフ集めの電話だ。

お会いすると来年専務をしてもらいたいという。

専務・・・・もう事務局はおなかいっぱいであった。

3週間くらい返事をしなかった。

当時のボスである佐藤先輩に相談してみた。

力不足だという。

なんで?とは聞けなかった。

相手が悪い。

次年度を指名したのは、佐藤先輩なのだ。

私の脳裏にはドナドナがBGMとして流れていた。

めでたく、専務理事になった。

この年もまた、濃い一年であった。

でも、慣れたものであった。

理事会も、そんなに苦にすることなく進行できた。

新たな出会いもあった。

05宮崎ブロック協議会である。

おなじ専務室で事務総長あった長曽我部先輩が05会務の委員長として

対岸に座っていた。

隣に座ったのが運の尽きとばかりに、

一人で二つの委員会事業を

担当するはめになっていた。

私はというと、そういう会務の方々の苦労はさておいて、

05専務会(グルメの会)で、会員会議所中に宮崎市内を観光したりしていた。

今では考えられないが、そういう一年であった。

このときの05理事長会は今でも続いている。

翌年、06年は、副理事長をさせていただいた。

九州ビジネスアカデミーという委員会にも出向させていただいた。

長曽我部先輩が理事長を務められた一年で、

思い出深いシンガポール・・・・・言えない。

数々の伝説が生まれた一年であった。

07年、同じく副理事長、延岡青年会議所50周年である。

一宮先輩が理事長、高田君が専務。

最高のコンビネーションを見せられ、50周年を迎えることができた。

50の理事長はこの人しかいなかったはずだ。

スーパーヒーローを間近で感じることができた。

08年、研修委員会。

委員長は松本君。

会社が日向に移転した。

住まいも日向市になった。

彼にはいろいろと迷惑をおかけしたことだと思う。

それでも、選んでくれてありがとう。

09年。

またもや、引きこもっていた私を引っ張り出してくれる先輩が現れた。

長曽我部先輩である。

ブロック会長をされるという。

運営専務を引き受けてくれないか。

私が引き受けないときは、運営専務なしでブロックを運営すると・・・。

半ば脅迫に近い。

6月のことだった。

実は、長曽我部会長が次年度会長を迫られているとき、

日向市内で松田先輩とご一緒させていただいていた。

長曽我部を頼む。

そういう依頼であった。

判断基準は、一生付き合って生きたいかどうかだ。

だから、もうすでに脅迫をしなくても返事をするつもりだった。

09年は、激動の一年だった。

リーマンショックには、いまだにやられている。

世界経済は、混沌と混迷を続けている。

一年間、続けられただけでも奇跡かもしれない。

長曽我部先輩には、どれだけ心配をかけたことだったか。

西君をはじめスタッフには助けられた。

大久保次長、神田財政局長、佐藤、原田セクレタリー。

感謝している。

そして、卒業を迎えることになった今年。

卒業同期の皆様には、とても仲良くさせていただいている。

こんな私なのに、長友理事長からは副理事長を依頼いただいた。

小嶋君、高田君の両名は、監事として、

いつも、感心させられる監事講評を聞かせていただいた。

飯干君とは、ガンダムを見に早朝から新幹線に乗って、

旅をした。

森山副理事長といっしょに、スリーアミーゴスを結成させていただいた。

とても充実した一年になった。

こんな私でも、何とか卒業に至ることができたのも、

皆様のおかげだと心から感謝いたします。

今後とも、末永いお付き合いをお願いします。


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コメント

toramorioさま

おかげさまで、何とか卒業まで至ることができました。

これからも、末永くお付き合いいただきたく、お願い申し上げます。

まだ1ヶ月ほどありますが・・・とりあえず大きな節目です!

『おめでとうございます』

また次の節目に向けて・・・切磋球しながら自分の可能性へ挑戦して参りましょう!

まだ1ヶ月ほどありますが・・・とりあえず大きな節目です!

『おめでとうございます』

また次の節目に向け・・・切磋琢磨しながら自分の可能性に挑戦しつつ前に進んで参りましょう!

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