最近のトラックバック

« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »

手帳の季節

この季節、書店に入ってすぐの一等地には、

来年の手帳が並んでいる。

実は、この3年手帳を購入していない。

それは、携帯電話でスケジュール調整をしているから。

それも、iphone を使うようになってからだ。

もともとの携帯電話にも、スケジュール機能は搭載してある。

それのアラーム、TODOリストなどを使ったこともある。

だが、アナログ手帳にはかなわなかった。

しかしスマートフォンの登場でそれは一変した。

画面は大きいし、入力もそこそこ早くでき、苦にならない。

漢字を忘れていたとしても、変換してくれるし・・・・、

これは脳の退化を進行させるかも・・・・( ̄Д ̄;;

そういうところで、ネット環境も整ってくると、

だんぜん、デジタル手帳としてのスマートフォンが使い勝手がよい。

私の場合、Googleカレンダーと同期させているのであるが、

パソコン上でも編集できて非常に便利だ。

アラート機能も使えば、スケジュールを忘れることも少なくなる。

もともとがまめな性格ではないので、重要なこと意外は、メモしない。

しかし、メールで届いた情報は、スマートフォンでも閲覧できるので、

そんなに問題になることもない。

よって、デジタル手帳を利用しているのであるが、

アナログの手帳も、書店に並んでいるものを見るとほしくなる。

たぶん、iPad を購入すれば、そんなにほしくないのであろうが、

アナログ手帳の質感や手軽さは、なかなか捨てがたいものがある。

メモで、スケッチする場合などは便利だ。

そういう点を考えるとアナログ手帳もほしくなってくるところだ。

そうそう、年末になれば手帳が取引先から届いたりしていたが、

最近は、手帳をくれるところが少なくなってしまっている。

厳しい情勢が影響しているのだろう。

これだけはいえる、来年の手帳からは、JCの文字が激減する。

05_px250


みらい設計委員会その2

延岡青年会議所では、毎月1回例会がある。

その例会にて、委員会アワーと呼ばれる時間がある。

通常、年1回くらいしか委員会は自分たちの例会アワーを持つことはできない。

2004年に年3回例会アワーを担当した強者もいらっしゃいますが、

通常は1回だ。

それを2回連続で行うというのは、委員会にとっては

かなりのパワーを要する。

そもそも1回の例会アワーでさえも、へとへとになるくらいの

ボリュームなのだが、それを連続で開催するのは大変なことだ。

しかし、テーマがテーマなだけにそれくらいはしなければならない。

いくら委員長が優秀だからと言っても、一人では何もできない。

そのためにも委員会メンバーは存在している。

長友理事長から委員会に託された命題を委員長を筆頭にまとまって、

それぞれが自分の能力を発揮し、さらには昇華させて行く様は、

頼もしいものであった。

そんなに絡むことはなかったが、皆様のいろいろな一面を見せていただいた。

来年は、今年の経験を生かしてもっともっと活躍していただきたい。

いや、活躍すると確信している。

その査証として来年の委員長が誕生したし、

宮崎ブロック協議会に、財政特別担当役員と委員長が誕生した。

委員長冥利につきることであろう。

そんなすばらしい委員会に巡り会えたことに感謝している。

みらい設計委員会

何とも苦しい委員会名称であるが、

今年はこの委員会を担当させていただいた。

(しかたなかったものね、後だしじゃんけんはNGだしね。)

担当と言っても、組織図において上に名前があるだけだが。

形的には、提出議案はすべて目を通して上程するので、

責任がない訳ではない。

こうやって、簡単にかけるのも、この委員会の委員長が優秀だったからだ。

JCの年度は1月1日から12月31日までなので、

今の時期は、予定者といって来年の組織において行動している。

この予定者の時期(9月から12月まで)に、

来年の組織における委員会の足場固めをしていく。

私が関わったのは、この予定者のときと担当例会前くらいだ。

基本的に担当副理事長が委員会に毎回毎回顔を出していては、

委員長も、委員会メンバーも息苦しいはずだ。

そういう勝手な理由付けをして、参加しなかったのかもしれない。

元々、リーダーシップのとれる委員長と思っていたので、

心配していなかったことと、彼の性格からして自由に考え、

自律した行動をするのではないかと思っていたからだ。

その結果は、私の想像を遥かに超える優秀なものであった。

予定者の段階から、1月早々に行われる延岡市長選挙の公開討論会を

なんとか成立させようを奔走している姿は頼もしかった。

そしてなんと言っても、

この委員会が長友理事長から託された担いが大きかった。

公益法人制度改革にともない組織のあり方を決定づけなければならないため、

「我々の進むべき道を選択せよ。」というものである。

この命題は大きい。

今年もいろいろな事業に取り組んできたが、

通常の事業は、がんばったら何とかなると言っても過言ではない。

どんな事業でもがんばることは当然のこととして、

ここに至ってとにかく考えることをしなければならない、

とにかく考えて、考えて、悶々としながらも、

新しい自らの未来への道筋をつけることを長友理事長から託された。

まさに、会議所と名のつく通り、会議を重ねて、重ねて、

問題にぶつかったら、行動し、解決し、また議論し、の くりかえし。

最終的に出した答えは、存在意義。

組織の存在意義からして見つめ直し、

それを皆に理解させ、

社団法人延岡青年会議所のあるべき姿をイメージさせ、

そしておのおのに

未来を選択をさせるというプロセスを経て、

来年の公益社団法人へ挑むという議決に至るわけだが、

議決された後も、定款の変更など来年の担当委員会への引き継ぎを

しっかりとしている。

何も、指示などしていない。

彼らが、自立している証だ。

しかも、この委員長は自分たちが今こうしている、こう思っている。

いかがでしょうか、と私なんぞにもアドバイスをきちんと求めてくる。

私が感じたことを伝えるとそれをしっかりと自分たち委員会で解釈をし、

しっかりとした答えを出してくれている。

何もしなかったと思えるのは、こういう理由からだ。

そういうところを見抜いて、

この委員長にとてつもない命題を託した長友理事長。

その時点で成功したようなものだったのでしょう。

人事を尽くして天命を待つ とはよく言ったものだ。

この委員会が大成功だったと思えることがもうひとつある。

委員会メンバーがいきいきと活動していたことである。

2ヶ月連続の例会アワー。

その内容は、前に述べた通り。

会議所全体を巻き込んだ壮大なストーリーが仕組まれていた。

つづく。

40歳定年その2

休会はしていたものの、年後半には復帰。

また戻ることができ、みんなが暖かく迎え入れてくれたことは、

ありがたかった。

2003年は、九州地区協議会に松田先輩が委員長として出向された。

運営幹事として、ご一緒させていただくことになった。

この年は、まぁ出向先で一番重要なのは、何をする委員会かが

重要なのではなく、誰が委員長なのかが重要であるということを

実感した一年であった。

いうまでもなく、松田先輩は普通ではない。

当人からすれば至って普通なのであろうが、

どう客観的に見ても、その活力は常軌を逸している。

能力の高さは言うまでもなく、あのバイタリティーはどこから生まれてくるのか。

そこについていく者の身にもなってほしいものだが、

得るものは十分すぎるものがあった。

このきらめく九州創造委員会の同窓会は今でも続いている。

その年の後半、来年度の組織が固まり始めるころ、

森山君からお会いしませんかという電話が入った。

すると、来年事務局長をするから、次長をお願いしたいという。

事務局畑で育ってきていた私にとって、

次長のポジションであれば、そこまで大変ではないという軽い判断があって、

安請け合いをしたのであったが、

ふたを開けてみれば、森山専務誕生であった。

自動的に、事務局長に昇格である。

事務局長を受けることになりましたと松田先輩に報告すると、

あなたは事務局長などせずに委員長をしなさいといわれた記憶がある。

確かに、事務局長などおもしろいポジションではない。

しかし、森山君が専務をするのであるから、

私が支えなくてはならない、そうしたいという思いが強かった。

幸いにも事務局次長を高田君が受けてくれた。

入会したときの約束を覚えてくれていて、

どちらかが初理事をするときは副委員長にお互いなろうと。

ありがたかった。

そして、こちらも運命的な出会いになった。

佐藤先輩との出会いだ。

小生意気な後輩たちにもかかわらず、

どこまでも、やさしく、暖かく、接してくれた。

だが、やさしさだけではなく、

信念は決して曲げない心の強さも、教えてくれた。

セクレタリーには、首藤君が決まっていた。

もう一人ほしいというと、

アカデミー委員会の柳田慎司君を推薦してくれた。

私が彼に電話を入れると、よくわからんけんど、やれるだけやってみますわ。

快く引き受けてくれた。

こちらにも、感謝だ。

そうやって、04のteam-tetsuji が生まれた。

当時、54名のスタートであった。

世界会議も福岡で開催される年で、予算を組むことが困難を極めた。

どうやったらこの予算を通せるか、

緻密な計算をしたのは当たり前で、

監事、副理事長を味方につけ、みんなの思考力が衰えてくるであろう時間帯に、

議案が回ってくるように次第を作り、臨んだものだ。

とにかくいろいろな体験、経験をさせていただいた。

抱腹絶倒の一年であった。

そんな固い結束のteam-tetsuji にも、終わりが近づいてきた。

05予定者の時期だ。

2005年の理事長予定者に松田先輩が選出された。

松田先輩から電話が入る。

会いたいのだが時間はあるか。

まちがいない、スタッフ集めの電話だ。

お会いすると来年専務をしてもらいたいという。

専務・・・・もう事務局はおなかいっぱいであった。

3週間くらい返事をしなかった。

当時のボスである佐藤先輩に相談してみた。

力不足だという。

なんで?とは聞けなかった。

相手が悪い。

次年度を指名したのは、佐藤先輩なのだ。

私の脳裏にはドナドナがBGMとして流れていた。

めでたく、専務理事になった。

この年もまた、濃い一年であった。

でも、慣れたものであった。

理事会も、そんなに苦にすることなく進行できた。

新たな出会いもあった。

05宮崎ブロック協議会である。

おなじ専務室で事務総長あった長曽我部先輩が05会務の委員長として

対岸に座っていた。

隣に座ったのが運の尽きとばかりに、

一人で二つの委員会事業を

担当するはめになっていた。

私はというと、そういう会務の方々の苦労はさておいて、

05専務会(グルメの会)で、会員会議所中に宮崎市内を観光したりしていた。

今では考えられないが、そういう一年であった。

このときの05理事長会は今でも続いている。

翌年、06年は、副理事長をさせていただいた。

九州ビジネスアカデミーという委員会にも出向させていただいた。

長曽我部先輩が理事長を務められた一年で、

思い出深いシンガポール・・・・・言えない。

数々の伝説が生まれた一年であった。

07年、同じく副理事長、延岡青年会議所50周年である。

一宮先輩が理事長、高田君が専務。

最高のコンビネーションを見せられ、50周年を迎えることができた。

50の理事長はこの人しかいなかったはずだ。

スーパーヒーローを間近で感じることができた。

08年、研修委員会。

委員長は松本君。

会社が日向に移転した。

住まいも日向市になった。

彼にはいろいろと迷惑をおかけしたことだと思う。

それでも、選んでくれてありがとう。

09年。

またもや、引きこもっていた私を引っ張り出してくれる先輩が現れた。

長曽我部先輩である。

ブロック会長をされるという。

運営専務を引き受けてくれないか。

私が引き受けないときは、運営専務なしでブロックを運営すると・・・。

半ば脅迫に近い。

6月のことだった。

実は、長曽我部会長が次年度会長を迫られているとき、

日向市内で松田先輩とご一緒させていただいていた。

長曽我部を頼む。

そういう依頼であった。

判断基準は、一生付き合って生きたいかどうかだ。

だから、もうすでに脅迫をしなくても返事をするつもりだった。

09年は、激動の一年だった。

リーマンショックには、いまだにやられている。

世界経済は、混沌と混迷を続けている。

一年間、続けられただけでも奇跡かもしれない。

長曽我部先輩には、どれだけ心配をかけたことだったか。

西君をはじめスタッフには助けられた。

大久保次長、神田財政局長、佐藤、原田セクレタリー。

感謝している。

そして、卒業を迎えることになった今年。

卒業同期の皆様には、とても仲良くさせていただいている。

こんな私なのに、長友理事長からは副理事長を依頼いただいた。

小嶋君、高田君の両名は、監事として、

いつも、感心させられる監事講評を聞かせていただいた。

飯干君とは、ガンダムを見に早朝から新幹線に乗って、

旅をした。

森山副理事長といっしょに、スリーアミーゴスを結成させていただいた。

とても充実した一年になった。

こんな私でも、何とか卒業に至ることができたのも、

皆様のおかげだと心から感謝いたします。

今後とも、末永いお付き合いをお願いします。


40歳定年

昨夜は、社団法人延岡青年会議所の卒業式であった。

98年3月入会。

今年を含め13年間お世話になったことになる。

入会当初、あと13年もある卒業できるのか。

そんなことを言っていた記憶がある。

気がつけば、そんな年を迎えてしまった。

延岡青年会議所には、

いろいろなことを経験させていただいた。

入会当初、いきなり延岡に100人の知り合いができた。

当時の私からすれば、雲の上の人たちに思えた。

毎月開催される例会では、いろいろな学びをいただけた。

いつも遅刻していた私には、監事講評が印象に残っている。

当時の監事は、石丸先輩と柳田先輩だった。

お二人の言葉一つ一つが衝撃的だった。

そうそう、最初の名刺交換は当時セクレタリーだった小嶋君だった。

同じ年に卒業できるなんて、運命的だ。

2年目は、環境系の委員会で廃油を使って、石鹸を作ったことくらいしか、

記憶にない。委員会としてはいろいろしていたはずだが、

あまり参加していなかった。

3年目は、リベンジといいますか、

同じく環境系の委員会に副委員長として配属になった。

なぜか、毎週長浜のごみ清掃を早朝からしていた。

今思うと・・・・・いや、言うのはやめておこう。

同時に、九州地区協議会という日本青年会議所の組織に出向した。

同期の高田君とG田先輩といっしょに。

きっかけは、

その年卒業されるG田先輩が日本青年会議所に出向すると言い出した。

するとほかの諸先輩方が日本に一人でやるわけにはいかない。

九州地区であればお付をつけられるからと、

高田君がチョイスされた。

なぜか、私も道連れに・・・・( ̄Д ̄;;

だがその地区出向は、私たち二人に衝撃を与えた。

委員会の運営、設営、おもてなし。

そして出向している人たちのレベルの高さ。

アジェンダという言葉をはじめて聞いたとき、

高田君と私は????

スタッフ会議の資料は緑のアジェンダ。

委員会のはピンクのアジェンダ。

なんのことはない、次第であるが、

それが新鮮であった。

そして4年目。

これまた衝撃的であった。

牛島先輩が日本青年会議所九州地区宮崎ブロック協議会(ながい・・・・)の

会長になられた。

スタッフとして、

私をセクレタリーに指名してくれたのだ。

そして当時の運営専務が松田先輩。

事務局長が児玉先輩。

事務局次長は、F1小野先輩。

財政局長は、小嶋君。・・・・・・濃い。

セクレタリーとはかっこいいがなんのことはない。

平たく言えば、かばん持ちなのだが、

それが何よりの経験をさせていただくことになる。

毎月数回どこそこと遠方にて会議がある。

ブロック会長である牛島先輩は、たくさんの会議に参加しなければならない。

九州内であれば当然移動は自動車。

牛島先輩の車を一年間で10000kmは運転した。

その車中が何よりの勉強になった。

いろんな話をさせていただいた。

感服させられたのは、どんなに遅い時間に帰路についても、

助手席に座っていた事務局長は焼酎を飲んで、

眠っているのに、

運営専務も後部座席で爆睡しているのに、

私の真後ろにいらっしゃる牛島先輩は寝ることなく、

私を気遣ってくれていた。

延岡青年会議所の懐の深さが身にしみた一年であった。

今振り返ると、この年が一番成長させていただいた一年であったのかもしれない。

翌年、仕事の関係で休会する。

延岡青年会議所45周年の年であった。

だからこの年のことはよく知らない。

いろいろと話題の多い一年であったということは、

後々耳にしたが、興味はなかった。

つづく。

鍛造金型に挑戦中

熱間鍛造という加工方法があります。

簡単に言うと鍛冶屋さんです。

鉄は熱いうちに打て!という言葉通り、

鉄を電気炉などの炉に入れて、真っ赤に焼きます。

その焼いたものをハンマーで叩くのです。

当社の取引先が熱間鍛造をされております。

その金型を補修させていただいております。

まだ始めたばかりなので、この金型の金属特性を探りながら加工しております。

真っ赤に焼かれて、やわらかくなっているとはいえ、

鉄には変わりありません。

それを同じく鉄にて叩くわけですから、

叩くほうも変形してしまうわけですね。

しかも何度も叩くわけですから簡単に形が変わってしまっては、

困ります。よって、金型の材質はとってもかたい。

それでも変形してしまうので、

溶接で肉盛をして、機械で形状を整えるというわけです。

その整える作業をさせていただいております。

Kanagata

こういうものです。

マシニングセンターという機械にセットしております。

動いている様子は、You Tube にアップしておりますので、

甲東機工で検索していただければ、見ることができます。

刃物の消耗が激しいので、今後はデータを取りながら、

条件を出して行かなければなりませんね。

設備移動

昨日、機械を移動させました。

延岡においてあった機械を日向まで移動です。

朝から、トラックに積み込んで日向に到着したのは、

10時。

それから、トラックを工場内に入れて、

天井クレーンで下ろしました。

重さは、2.5t しかないので、

らくらくですね。

どんな機械かといいますと、

バンドソーという帯のこ盤ですね。

Pcsaw2

φ115の鉄を切っております。

昨日、残業手当の出ない2人で行いました。

私とK田君です。

久しぶりに稼動させようとしたので、

操作がうろ覚えのところをなんとか、かんとかいいながら

ばっちり、希望通りのところまでもって行きました。

ちなみに、この2本を切るのに、2分30秒です。

もうちょっとデータ的には伸ばせるはずです。

チャンピオンデータを出した後は、その8割くらいで稼動させなければね。

切り口は、こんな感じになります。


Pcsaw_3

手なんて入れてしまったら、簡単に切れます。

作業には十分注意しましょう。


再上場

【ニューヨーク時事】米自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)は17日、再上場に向けた新規株式公開(IPO)に伴い、米政府などが保有する普通株15億株のうち4億7800万株を、1株当たり33ドルで売り出すと発表した。優先株も合わせた売却規模は最低でも201億2000万ドル(約1兆6700億円)に上り、米史上最大となる。18日に米ニューヨーク、カナダ・トロント両証券取引所に上場。昨年6月の実質経営破綻(はたん)から1年5カ月で株式市場に復帰する。
 また、普通株と優先株の追加売り出し分も含めると、調達額は最大で231億4000万ドルに達し、世界で過去最大となる可能性がある。 

恐ろしい限りですね。

アメリカには、企業再生のノウハウがしっかりと存在しているということです。

日本ではこうはいかない。

JALも、そうなるのかな。

チケットレス

更新頻度が、週一回になってしまっている。

ブログはノートパソコンがないので、出張したり、

環境が整っていないところでは更新できなかったりする。

やっぱり、ノートパソコンは必修なのであろうか。

さて、飛行機で移動するときに、通常はチケットを

手配してそれを持って空港に行くのであるが、

最近は、チケットレスで空港で発券することをしていた。

しかし今回は、タッチ&ゴーといって、

ネットですべての予約を済ませていたので、

直接搭乗口へ行って、ICカードもしくは

ネットで印刷した2次元バーコードを持っていくのですが、

チケットがないと不安ですね。

しかし、何の問題もなく成功。

20101115110447

登場案内が印刷されて出てきました。

そして、裏面を見ると


20101115110509

マクドナルドのコーヒー無料券がついておりました。

お得ですね。

今回はコーヒーでしたが、ビックマックも当たることがあるとか。

今後は、このチケットレスが楽しみになりそうです。

ツアーパックでは使えませんけどね。

未来への投資

先週、毎日コミュニケーションズのマイナビ担当の方が

お見えになられた。

その中での話題は、2012年度の採用に関するものなのであるが、

今年の2011年度の採用活動に関する意見交換をさせていただいた。

その紹介の前に気になった記事が今朝の日経新聞電子版にあったので、

ご紹介する。

Photo

タイトルは、就職戦線 買い手市場に異変 とある。

以下に記事を抜粋紹介する。

10月1日。繊維大手A社の内定式。2011年春に入社する内定者のために、昭和初期の洋風デザインが美しい社交施設を借りた。採用担当者は豪華な内装に反してやや閑散とした会場内を見回しながら、「やっぱり少し寂しいな」と感じていた。出席した内定者の数が当初の採用計画数を大幅に下回っていたためだ。

 2-3年前までは同じ会場が60人前後の内定者でにぎわっていた。リーマン・ショックに見舞われた10年春の新卒採用は19人に絞ったものの、来春入社を見込む今回は業績回復を受けて40人の採用を計画していた。ところが、内定式に参加したのは、計画の半分よりもさらに少ない14人。社長のあいさつに先立って実施した内定者同士の自己紹介は、短時間であっさりと終了した。

 A社は東証1部上場の大企業で、業界トップクラスの売上高だったこともある名門。現在も自動車やIT(情報技術)機器向けの高機能樹脂などで堅実な経営を続けている。採用担当者は「なかなか質の高い人材が採れなかった」と残念がる。

 合格通知後に内定を辞退する学生も数人いたが、不足分を補う追加募集は実施しなかった。「優秀な学生が応募してくる可能性と、我々の労力を考えた結果、追加募集はあきらめようということになった」という。

 村田製作所、日本マクドナルド、オリックスグループ、スクウェア・エニックス、森精機製作所……。大手企業が一斉に内定式を開く10月1日時点で、内定者が計画数を下回る企業が続出している。大手企業790社を対象とした調査では実に約半数の390社が計画に届かなかった。内定者数を採用計画数で割った充足率で50%前後の企業も珍しくなく、25%という例もある。業界トップクラスの人気企業でも、思うように採用活動ができていない。

ここから、伺えることは

企業と学生のニーズがマッチしていないということだ。

もともと働いたことがない学生なのであるから、

すべてがマッチすることはない。

しかし募集に対して多くの学生が応募しているのは、まちがいない。

上記の企業であれば、

40人の募集に対して会社説明会からすれば1000人以上は応募しているはずである。

改めてスケジュールを紹介すると


Photo_2

こういった具合になる。

最近は、インターンシップを実施する企業が多くなっている。

実際に働いてもらって、企業を体験してもらおうという趣旨からだ。

こういったことが実施されているにもかかわらず、内定者が不足するという事態が

おきているのは異変としか言いようがない。

原因はどこにあるのであろうか。

第一には、学生の質の低下が挙げられた。

前出の繊維大手A社の採用担当者は学生の「質」の問題を挙げる。

A社には実は前年に比べ1-2割多い1万4000人もの学生からエントリーがあった。内定者数に対する倍率は単純計算で1000倍に達する。しかし、「なぜ当社に応募したのかさえ理解しづらい学生が多すぎる」と嘆く。
(抜粋記事)

当社も実は今年の採用者数0であった。

厳しい経済状況が背景にあるのは言うまでもないのであるが、

採用活動は未来への投資であるから、継続して行っていくことが望ましい。

しかしながら、今年の結果は残念なものであった。

今年もエントリー数からすると100名は会ったと思う。

最終面談まで至った人数は、5名。

その全員に内定を出せなかった。

私たちからすれば、「選んでくれてありがとう」という気持ちが強い。

しかし実際に仕事をしていく仲間として迎え入れるという判断を迫られたとき、

今回は、涙を呑むに至った。

同じような判断を企業規模は違うとはいえ、他社もしているという

現実がある。

すべての学生がそうであるというのではない。

押しなべてそういう傾向にあるということだ。

TTPとかFTAとかいろいろと将来の枠組みが変わることがわかっている。

それに対応できる人材を育てなければならない。

その最初のハードルが採用活動になる。

人材育成、国家百年の計を誤ってしまったのではないか。

流れ

政府・与党が検討する「経済連携協定(EPA)に関する基本方針」案の骨格が判明した。

5日の閣議決定を目指す。環太平洋経済連携協定(TPP)について交渉に参加する意向を明示。

これと並んで農業を軸に国内改革の中期計画を作る方針を示す。

有識者会議も設置し、簡易保険や政府調達など非関税障壁の扱いも含めて調整する。

農業関係者らの強い反対をふまえ、改革方針とセットでTPPの交渉参加へと動く。

今朝の日経新聞の一面はこの記事であった。

この流れは、決してさけることはできない。

もし避けるとすれば、鎖国するくらいの覚悟が必要であろう。

« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »

2018年10月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ